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【小説風事例紹介】仕事が生き甲斐だった元国家公務員のAさん


1.初めてのグループホームとAさん

 

私は特別養護老人ホーム(特養)で介護職員として勤めていましたが、職員主導の集団ケアに疑問を感じていました。ちょうど3年目を迎える頃、個別ケアを重視し、少人数・家庭的な環境の中で認知症の高齢者が共同生活を送るグループホームが注目され始めました。転機が訪れたとばかりに特養を退職し、とあるグループホームの面接を受けました。前職の経験も評価され、晴れてグループホーム介護職員としての就職が叶いました。

 

そこでは「朝の会」があり、朝食後リビングに皆が集まって挨拶を交わし、日付の読み上げ・スタッフからの一言の後、ラジオ体操で1日をスタートさせる習慣がありました。その場で初日の挨拶をすることになったのですが、その中に一際異彩を放つ入居者がいました。

 

バーコード風にカモフラージュされたハゲ頭に大きな黒縁メガネ、中肉中背・意味の分からない英語の書かれた上下スウェットに便所サンダルの男性、それがAさんです。

 

緊張しながら挨拶する私に皆が温かい言葉をかけて下さる中、彼だけが「ここの部署は厳しいぞ!清濁併せ飲む覚悟で職務にあたるように!」と激励モードなのです。

 

Aさんは元国家公務員で、社会保険関係の部署でそれなりの役職に就いていました。定年退職後も同部署のアドバイザー的な立場で仕事に打ち込んでいましたが、引退してから一気に生活にハリがなくなり、不可解な言動が目立つようになりました。

 

奥さんの付き添いで受診したところ認知症との診断を受け、グループホームに入居したという経緯です。男性が退職後に認知症になるという定番パターンと言えるかもしれません。

 

そんな見た目と少々スケベな性格もあって女性スタッフからの評判はあまり良くありませんでしたが、フロアのムードメーカ的な存在で、何だかんだ言われながらも皆から好かれていました。

 

Aさんは身体は非常に元気でしたが、自身の置かれた状況や時間の理解等に問題がありました。昼夜を問わず「寝坊した!早く庁に送ってくれ!」「会議の資料はできているか?」「あの問題は解決できそうか?」等、Aさんの中でAさんは未だに国家公務員で、フロアは庁職員が集団生活を送る寮だったのです。

 

記憶も不十分で誤認も多いですが、何となく人物やフロアの配置等の感覚は残っている状態で、どういうわけか私はNさんをサポートする新入りの秘書という認識をされていました。

 

「Aさんはとっくに定年退職しています!ここはグループホームです!」とある意味マジメに対応するスタッフがいる中、私はAさんの秘書として徹することにしました。

 

誠意を持って本当のことを伝えるのが正しい介護であるとの主張もある中、それに逆行するやり方でしたが、何となくそれがAさんへの対応として適切だったような気がしたのです。

 

2.Aさんとの生活

朝の会は全体の引継ぎ・暇つぶしの工作は広報準備・風船バレーは親睦スポーツ会等、Aさんにとってはどのようなことも仕事の一環です。私は秘書としてそれらの活動への参加を勧め、サポートしたのです。誰が見てもつまらないと思われそうなイベントであっても、Aさんは秘書の進言によりその場の主導権を握り、ノリノリで参加し、場を盛り上げてくれるのです。

 

Aさんは元気で身の回りのことは自分でできるため、関わりのほとんどは仕事絡みの混乱モードになった時の話し相手です。介助らしい介助と言えば入浴の時に背中を洗う手伝いをする程度でした。

 

私の父は早くに他界しましたが、仕事をせずに酒を飲んで博打をするような人物でした。Aさんとは全く違う人種でしたが、入浴介助をしていると、何故か父の背中を流しているような気持ちになりました。

 

Aさんは「お前だけ服を着てないで、一緒に入ろう!俺も背中を流してやるよ」と言うのが定番なのですが、心地よいやりとりなのです。通常であれば、入浴介助は暑い・気を遣う・危険と、やりたくない仕事の上位でしたが、Aさんの介助は負担に感じませんでした。

 

Aさんは、食事の準備をしていると調理場周辺をウロウロし始め、ろくにできもしないのに味付けや盛り付けにあれこれと指示を出します。「じゃあお手伝い願います」とキャラクターの描かれたピンクの調理用エプロンを渡すと、迷わず着用してくれます。結局、つまみ食いのチャンスを窺いながらウロウロしているだけなのですが・・・。

 

概ね配膳が済むと「皆様、お揃いでしょうか!足らず等がございましたら挙手を願います!」と皆に声をかけ、食事が始まる感の演出に一役買います。「またハゲが仕切ってる」「毎日飽きずによくやるもんだ」と言われてもAさんは臆する様子を見せず、そうやって陰口を叩いている入居者もその音頭取りを待っているという構図ができ上がっていました。

 

夜になりパジャマに着替えると時折スケベスイッチが入り、知的かつウィットに富んだ下ネタで私たち男性スタッフを楽しませてくれます。しかし、あまりに過激な下ネタには難色を示し、急に紳士的に振る舞うのもお約束のパターンでした。女性職員の中には気持ち悪がる者もいましたが、便乗してAさんをからかってその場を楽しめる職員がほとんどでした。

 

結局のところ、混乱が生じない限り、Aさんはただの定年退職したオッサンなのです。私は秘書であると同時に一人の男性として、戦争の話・仕事の話・車の話・水商売のお姉さんの話等、Aさんから色々なことを教わりました。

 

3.認知症の進行

いつからかを境に、Aさんの様子が少しずつ変化してきました。「虫が襲ってくる」「ヤクザが殺しに来る」等と話すようになり、居室に閉じこもって中から鍵を閉めたり、物を積み上げて高いところに上ろうとする等の行動が見られるようになったのです。

 

秘書に対してはそれほどではありませんでしたが、女性職員を厳しく叱責したり、大声を出したり、日に日に不穏な状態がエスカレートしていきました。

 

意識的に普段と変わりないよう接してはいましたが、明らかにAさんの状態は変わってきていました。

 

心療内科の先生にも診てもらったところ、統合失調症や前頭葉がどうとかの説明がありました。要は認知症の悪化と精神疾患の併発であり、状態が悪い方向に進行していたのです。

 

ミーティングでAさんのケアについて話し合い、あれこれと試してみましたが状況は好転せず、服薬コントロールも併用しましたが、それも奏功しませんでした。

 

そんなある日、幸い大事には至らなかったものの、女性職員がAさんに殴られて怪我をしてしまいます。私はその現場にいなかったので当時のことは口述と記録でしか知り得ませんでしたが、彼女や他の入居者の様子を見る限り、それなりに壮絶な状況だったことを察することができました。

 

大事には至らないと言っても怪我人が出てしまったので、奥さん・心療内科の先生・上司を交えて緊急に話し合いの場が設けられました。

 

その最中にもAさんは大声をあげながら玄関のドアを叩き続けており、奥さんはその姿を見て号泣してしまいました。

 

結果、精神病院への緊急入院となりました。しかしこのままでは搬送もままならないので、まずは興奮を抑えましょうと臨時の薬が処方されます。後に調べたところ、強力な精神安定剤でした。

 

殴られた女性スタッフを含め、皆がAさんに怯え切っている状況のため、秘書の私が服薬介助をすることになりました。

 

Aさんは毎朝血圧と糖尿病の薬を飲んでおり、どちらかと言えば好んで服薬するタイプでした。しかし今回だけは少し事情が異なります。緊張感と罪悪感の入り混じった感情の中、「まずは落ち着いて血圧の薬を飲みましょう」と声をかけます。何かブツブツ言いながらも、拒否なく薬を口に運びました。

 

10分程経つと興奮が収まった、というか「落ちた」ようで、ふらふらとした足取りでリビングの椅子に向かい、そこに座ってぼんやりし始めました。

 

4.ついに入院

奥さんの付き添いの元、上司が社用車でAさんを病院まで連れて行くことになりました。私はまだこういった事態に首をつっこめる立場にありませんでしたが、上司に同行させてほしいと頼みました。日頃の関係性を知ってか、了承を得られました。「辛い場面に立ち会う覚悟があるなら」との条件付きで。

 

思考が機能していないのか、状況を察したのか、「病院で診てもらいましょう」との声かけにA さんは黙って車に乗り、ぼんやりと外を眺めていました。同乗の奥さんは「すいません…すいません…」とすすり泣き、何とも気まずい空間です。

 

目的地まではホームから40~50分程度で、入居の面談でよく足を運ぶ病院です。ドライブがてら雑談しているといつもはあっという間に到着するのですが、この日ほど病院を遠く、時間を長く感じたことはありませんでした。

 

病院の看板が見えます。「こんなに遠くて時間がかかると思わなかった。毎日通えるかしら…」と奥さんが口を開きます。土地勘がないらしいことを差し引いても、私と同じような気持ちで車に乗っていたのかもしれません。

 

いつも通りのエスコートに、A さんは少し足をふらつかせながら私の腕を掴んで静かについて来ます。椅子がたくさん並んだロビーに案内され、そこで奥さんと上司が医師・看護師と神妙な面持ちで立ち話をしています。奥さんが何かの書類にサインをしており、Aさんと私は少し離れた場所からそれを見ていました。

 

「ではこちらへ」と冷たい口調で早足の看護師に言われるがまま、廊下を歩きます。単に足がふらついているのか、不安なのか、私を信頼してくれているのか、A さんにしか分からないことですが、腕を掴む力が少しずつ強くなります。

 

言われるがまま車に乗せられ、見知らぬ病院に連れて来られる。私はおろか、A さんもこのような体験をしたことはなかったのではないでしょうか。

 

「これは一体どういうことだ!?根拠ある説明を求める!」いつものA さんなら間違いなくそう言っていたはずです。

 

どんどん奥に進んでいき、厳重な2重扉の先にある「観察室」と書かれた部屋の前で止められます。

 

重そうな鉄の扉に電子錠がついており、そこもまた2重扉のようです。小窓のむこうには6畳程の無機質な白壁の部屋にベッドとトイレだけが置かれているのが見えました。

 

Aさんだけが一旦別室に行くことになり、その時点で奥さんを残して私と上司は退室を命じられます。

 

5.A さんのいないフロア

病院からの帰りの車内で上司が「俺たちの仕事は楽しいこと・心温まることばかりじゃない。Aさんが身を持って勉強する機会を与えてくれたんだ」と話しました。私は他施設での勤務経験があったので、そんなことは十分に分かっているつもりでした。

 

「甘く見るなよ!」と内心で反発しながらも、Aさんに関してはその言葉を素直に受け入れている自分がいました。

 

今思えば、本人・他者の身を守るための適正な手段だったのでしょう。また、それを否定することは医療機関における治療を否定することにも繋がり得ます。

 

しかし、その時の私はそれが善なのか悪なのかの二元論でしか考えられず、複雑な心境でした。

 

同じフロアの入居者やそのご家族から「Aさんはどうしたのか」といったことを聞かれるようになりました。上司からは体調不良で入院していると答えるよう言われていたのでそのように対応しますが、まだまだ未熟だった私の表情は動揺を隠せていなかったことでしょう。

 

A さんが入院しているにも関わらず時折奥さんがホームに訪れ、菓子折りなどを置いて帰ってくれました。

 

以前は綺麗に化粧し、上品だった奥さんが見るたびにやつれていきます。A さんの行動と、その結果が相当ショックだったようです。

 

お心付けは受け取らないようにとの決まりでしたが、ホームに通うこと、それらを受け取ってもらうことが奥さんの心の拠り所になるのならと、特例的に受け取ることになりました。

 

約1ヶ月後、症状が安定して退院調整に入っているので、そちらも受け入れ準備をしておくようにと病院から連絡が入ります。先方からの情報に基づいて、ミーティングでAさんがホームに戻ってからのケア方法等について話し合います。

 

怪我をした女性は意外とケロっとしており退院を喜んでいましたが、他のスタッフは複雑な心境を隠しきれていません。上司は何度か病院と電話でやりとりしていたようですが、実際にAさんの状態を見た者は誰もいません。

 

あれほどの事態になったのですから、書面や口頭の情報だけでは不安を覚えるのは仕方がありません。「本当に大丈夫なのか」「戻って来なくてもよいのに」と胸中を打ち明けるスタッフもいました。

 

確かにAさんが変貌を遂げている最中はあれこれと手がかかったため、私もAさん一人いないだけで仕事が随分楽になったと感じていた部分がありました。

 

しかし、いざ退院となるとあっという間にAさんはホームに戻ってくることになりました。

 

6.A さん登庁する

Aさんは身の回りのほとんどのことに介助が必要になっており、車椅子に乗って帰ってきました。

 

少しスリムになったものの仕事節は健在で、以前のAさんに戻っています。とことん仕事人なんだなと感心させられたのと同時に、安心した自分がいました。

 

入院前はハゲ隠しのバーコードセットを自分でしていたのですが、それもスタッフが行うことになりました。「もう髪の毛なんてどうでもいいので、戒めも込めて丸坊主にしてやって下さい」と奥さんも冗談を言えるまでに元気になっていました。

 

そんなAさんを見ていると、「庁に連れて行ってあげたい」そんな思いが私と上司の間ではありました。しかし、昔の部下と会ったらどうするのか・余計な混乱を招くのではないか等、不安要素は沢山ありました。しかし、日に日にその思いは強くなっていきました。自分たちだけであれこれ考えても仕方ないということで、奥さんにその旨を伝えます。

 

奥さんは反対するどころか、迷惑でなければ是非連れてやってほしいとの返答。「大学を卒業してから、ずっと仕事一本でした。結婚後に子どもができなかったこともあって本当に仕事バカで、自分の家よりも思い入れがあると思う。いつもお父さんの仕事ごっこに付き合ってもらって本当に申し訳なくて・・・」と言いながらもどこか嬉しそうな、昔を懐かしむような表情でした。

 

当日は奥さんに現役時代のスーツを用意してもらい、上司も同行して登庁することになりました。普通に考えればいきなり「登庁しましょう」と言われれば困惑するものですが、「燕尾服じゃなくても失礼にならないか?」とAさんは何の抵抗も示しません。それどころか拙い手つきながらもしっかりとネクタイを結び、登庁に備えるのです。

 

庁は手続き等で一般人も普通に出入りできるため、特にアポをとることなく入館します。

 

Aさんは、新卒でドキドキしながらも胸を張って通ったこと・色々なトラブルに巻き込まれて徹夜で対応したこと等、昨日のことのよう振り返ります。

 

中の食堂で昼食をとることにしました。ここのお勧めは?と問うと、「どれも大してうまくないが、強いて言えば親子丼かな。ダシがよく効いている」と得意顔で答えます。介助が必要でしたが、しっかりとそれを平らげます。

 

一般の来庁者が移動できる範囲は限られています。あちこち行きたがるのではないかと懸念していましたが、A さんは落ち着いていました。

 

そろそろ退館かなと思った時、「長らく世話になり名残惜しかったけど、やることはやり切った。またこうやってここに来られて本当に感無量だ。もう思い残すことはない」とAさん。

 

今での頓珍漢なやりとりは芝居だったのではないかと思うほど、しっかりとした口調・表情なのです。思わず上司と顔を見合わせました。「では今日はこれぐらいで失礼しましょう」と答えるのが精一杯でした。

 

7.本当に退職

登庁イベントの後もA さんは特に変わりなく生活しており、そのことも忘れてしまっているのかと思うほどでした。しかし、庁を発つ前のあの言葉は紛れもなく本人の口から出たものなのです。

 

ある日、Aさんは風邪をひき、それをこじらせて肺炎になってしまいました。他の検査数値も思わしくないとのことで、訪問診療医の紹介で大きな病院にて検査を受けたところ、多臓器不全との診断。

 

治療等でどうこうできる状態ではなく、衰弱してくれば対象療法的に延命処置をするかしないかの問題で、いつ最期を迎えてもおかしくない状態でした。

 

療養病院への転院という選択肢が浮上しましたが、奥さんの「治療や延命は望まないので、施設の皆で看取ってあげてほしい」との強い意向があり、最期までお世話をすることになりました。

 

A さんは完全な寝たきりになり、会話もままならなくなりました。食事や水分もほとんどとらなくなり、ほとんど居室で寝ている状態です。

 

意地悪だけど世話好きな入居者が部屋を訪れ、「コラ!ハゲ!しっかりせんか!」などと声をかけます。A さんは静かに頷きます。

 

とても寒い時期でした。奥さん、他の入居者、私たちスタッフに見守られ、A さんは「人生」という仕事の退職を迎えました

 

ご遺体はお気に入りのスーツを着こなし、トレードマークの黒縁メガネ・バーコード頭も忘れていませんでした。

 

「入居者の通夜葬儀に他の入居者は勿論、ホームのスタッフも参列しない」との社内慣習があったのですが、Aさんに関してはそれが打ち破られました。スタッフ・Aさんと親しくしていた入居者で近くの会館に出向き、通夜葬儀に参列することになりました。

 

大きなホールに官公庁からの豪華な供花が並び、偉そうなお役人が多数押し寄せと思っていましたが、収容人数20人程度の小さな式場に、親族一同とホームの運営会社からの供花が1対ずつ。参列者は私たちを除けば、奥さんと数人の年配の男女でした。

 

少し予想外で寂しい気もしましたが、規模が大きければ良いというものではありませんし、奥さんの意向でそうしたのかもしれません。

 

ただ、バリバリの仕事人だったとは思えない場だったからこそ、Aさんが本当にそこから解放されたような気がしました。また、自意識過剰かもしれませんが、私たちが家族のような存在として見送ることができたのではないかと感じました。

 

「あのハゲオヤジ、嫁さんを悲しませてからに・・・」「仕切り屋がいなくなったら、次は誰がやるんだい」等、口々に毒のある、そして愛のある弔辞。

 

特定の入居者に強い想いを寄せるのは好ましくないと言われていますが、未熟だった私が精一杯に関わったAさん。天国でも新しい仕事に追われているのかなと、少し気の毒なような、Aさんらしいような。

 

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