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【小説風事例紹介】紙と鉛筆と認知症のCさん


1.なんて日だ

私がグループホーム(認知症対応型共同生活介護)で介護職員として働いていた時の話です。

 

定期ミーティングの際、3日後に新しい入居者(Cさん)が来ると発表されました。

 

Cさんは息子さんご夫婦と同居していました。奥様に先立たれてから不可解な言動が目立つようになり、認知症の診断を受けました。元々は心優しく寡黙な性格でしたが段々と粗暴になり、食べ物を探して家中を歩き回り、果てには近所のコンビニで売り物をその場で食べてしまい、警察のお世話になってしまいます。

 

昼夜を問わず大声で意味の分からないことを叫ぶようになり、時に息子さんらに手を上げることもありました。献身的な介護を受けながら何とか自宅での生活を続けていましたが、息子さんが仕事の事情で出張が増えたこともあり、グループホームへ入居に至りました。

 

他者への危害が想定される方は入居の適用外なのですが、空室が目立っていたこともあり、受け入れざるを得なかったのでしょう。ケアと精神薬コントロールを併用させて頂くとの条件で受け入れることになったようです。

 

不幸にもCさんの入居当日の夜勤は私が担当で、憂鬱な気分で出社します。申し送りで大体の状況を聞きますが、「ここはどこだ!」と一日中ウロウロしていたそうです。まさに「なんて日だ!」です。

 

恐る恐る挨拶し、隣の席で夕食をとります。「どうも、こちらは初めてですか?」と穏やかな口調でCさんに話しかけられ、内心「初めてはあなたでは?」と思いながらも何となく話を合わせます。

 

少し拍子抜けしながらもいつも通りの夜勤ルーティンで動きます。Cさんの介助は初めてですが、食後薬の服用~居室への誘導~口腔ケア~パジャマへの着替え・眠前薬の服用に至るまで、全てスムーズに進みます。他の入居者もそれぞれ居室に戻り、何ならいつもより調子が良いくらいです。

 

遅出のスタッフが退勤したため、フロアを消灯します。「さすが俺だな…」と酔いしれながらコーヒーを飲もうとした瞬間、廊下の奥の方からゆっくりと、見慣れない黒い人影がこちらに向かってきます。今までの夜勤ではいなかった人物、Cさんです。近付いて声をかける私に、「こんにちは、ラーメン1つ」

 

思わず笑いそうになりましたが、Cさんの目は血走っており、本気でした。一か八か「すいません、今日は閉店しました」と答えると、「そりゃ残念だ、ではまた」と戻って行きました。しかし、居室がどこか分からずウロウロしているので、案内してベッドで横になるのを見届けました。

 

その後間もなく、Cさんは大きなイビキをかいて眠り始めました。結局その日は一度も目を覚ますことなく、朝までぐっすり眠りました。

 

2.本領発揮

新入居当日の夜勤はジョーカー的な位置付けとされますが、人によっては日中のドタバタで十分に疲れ、ぐっすり眠ってしまうケースがあるのです(Cさんにおいては単なる結果論ですが…)。私の経験に基づく分析によれば、このような場合、本領を発揮するのはおおよそ2~3日後ではないかと考えていました。

 

予想は的中しました。とある女性スタッフの夜勤の日に、上司が緊急コールで駆り出されました。Cさんが「食べ物を出せ」と大声を出してウロウロし続けており、全く寝てくれないとのことでした。Cさんが頭角を現し始めました。

 

Cさんは食事や体操等、何かやることがあれば落ち着いてそれに集中しているのですが、手持ち無沙汰になるとウロウロし始めます。共用スペース・他者の居室もお構いなしで、目を離すとあちこちの引き出しや扉を開けて回ります。行動を止められると逆上し、「やかましい!何か食う物を出せ!」と言うのです。

 

夜間は職員1人での対応です。他の入居者の対応に手間取っている間に冷蔵庫から食材を出して食べたり、他者の居室に入り、眠っている入居者を起こしてラーメンを注文したり。起こされた入居者からすれば無断で居室に入られた挙句に意味の分からないオーダー、追い出そうとすると逆上される始末で、心中穏やかなはずがありません。

 

職員は目が覚めてしまった上に立腹している他の入居者の対応にも追われることとなり、Cさんが眠らない日の夜は壮絶な状態でした。

 

息子さんは「気の済むまで食べさせてやってくれたらいいです」と入居時に大量のおやつを用意してくれました。傷みやすい物を優先的に提供していきましたが、糖尿病の一歩手前という事情もあって安易に勧めることができませんでした。そもそも満腹感のリミッターがカットされている様子でしたので、仮にそれを全て提供したとしても、結果は変わらなかったでしょう。

 

精神科の先生に相談して眠前薬を少し増量してもらいますが、眠気でふらつきながらこれらの行動を起こすようになりました。ノーマルでも十分大変だったのですが、そこに転倒リスクが追加されるという結果になり、どうすればよいのか、皆で頭を抱えました。

 

「誰かが関わっていればCさんは落ち着く」と言うのは簡単ですが、他の入居者の介助や事務仕事もあり、Cさんだけに付きっきりになることはできません。無理を押して入居に踏み切った上司は、非常にバツが悪そうな様子でした。

 

3.Cさんの今まで

Cさんの状況報告を兼ねて、何か打ち込めることはないかと息子さんに電話で尋ねたところ、絵を描くのが大好きだったとの情報を得られました。

 

息子さんから聞いた、Cさんの話です。

 

Cさんは某県の山奥ののどかな村に生まれましたが、家が貧しかったため丁稚としてこちらに移り住み、生家で住んでいたのは10年ほどだったそうです。

 

戦争が始まり、住んでいた町は焼け野原になりました。仕事どころか家もない、とにかく何もかもなくなりました。Cさんは拾った鉛筆と紙で似顔絵や風景画を描き、それを売って小遣いにしていました。

 

学校に行ける余裕はなく、学問的なノウハウもなく鉛筆一本の我流でしたが、奉公先で「お前は馬鹿だが絵は天才的だ」とよく言われました。

 

その後、紆余曲折を経て現在の実家で金物屋を始めました。当初はそれなりに流行っており、頑張ってそれなりの蓄えはできたようですが、時が経つにつれ、わざわざ金物屋で買い物をする人はいなくなってしまいました。

 

店には近所の人が立ち寄って雑談する程度で、暇人の集会所のようになっていました。それ以外の時間はゴロゴロ寝ているか、絵を描いて過ごしていました。「個展を開いてみたいなあ」「絵で稼げたらなあ」とよく話していました。

 

母は呆れて「子どもよりタチが悪いわ」とぼやいていましたが、幼いころから苦労してきたこと・頑張って店を切り盛りしてきたことを誰よりもよく知っており、父の寛容さ・優しさに惚れ込んでいたので、それ以上に文句は言わず、工場や清掃のパートをしながら家計を支えていました。

 

とにかく絵を描くのが好きで、旅先でもメモ帳やパンフレットの裏等を使ってマイペースにスケッチを始めることがありました。思い出を振り返るのは、写真よりも絵でした。

 

母が亡くなった時、絵を全て棺に入れてしまいました。私は猛反対しましたが、「時間ならいくらでもあるし、また描けばいい。母さんに持って行ってほしいんだ」珍しく毅然とした父の態度に、何も言い返せませんでした。

 

息子さんは出張が多くなかなか面会に来る機会がなかったのですが、定期的に電話や手紙をくれました。絵に関する情報から間もなく包みが届き、使い古された鉛筆のセット・新品のスケッチブックが入っていました。

 

「認知症になってからは絵を描くことも忘れてしまったようで、部屋の押し入れにしまってありました。父が好んで使っていた鉛筆のセットです。スケッチブックも一緒に入れておきます。私ももう一度父の描く絵を見てみたいですが、体が覚えているかどうか…」と息子さんからの手紙が添えられていました。

 

4.Cさんの絵

早速Cさんに鉛筆とスケッチブックを渡したところ、「トンボ鉛筆か…」と呟き、少し表情が緩んだ気がしました。「向かいの席で居眠りしている女性を描いてもらえませんか」とお願いしてみます。返事はなく、少し怪訝そうにしていましたが、サラサラと線を描き始めました。

 

初めての出来事に最初はワクワクしましたが、時間がかかりそうだったので、他の仕事をしながら様子を見ていました。

 

手を止め一息ついた様子だったため、見に行きました。スケッチブックの中に、誰が見ても「向かいの席で居眠りしている女性」と分かる人がいました。正直、出来栄えは期待しておらず、Cさんが少しでも落ち着くのなら良い時間稼ぎになる程度にしか思っていなかったので、心底驚きました。他の職員も集まり、大盛り上がりしました。Cさんはにこやかに、「喜んで頂けてよかったです」と話し、居室に戻ってゴロンと横になりました。

 

何かテーマがあった方が描きやすいのではないかと、富士山や葛飾北斎・モナリザ等、誰でも知っているようなモデル画を渡しましたが、興味を示しませんでした。自分の描きたい物を描くというポリシーでしょうか。

 

それ以降、Cさんは手元に鉛筆と紙さえあれば、誰に言われるでもなく絵を描きました。チャップリンやマッカーサー、鉄腕アトムにのらくろ、軍艦に戦車…。時間はかかりますが、見事な作品が次々と完成していきます。

 

右下には必ずイニシャルのサインと西暦・日付が入っていました。西暦はバラバラで、1930年代~1990年代がメインでした。先ほどの作品の他に、時折誰か分からない女性や田舎・商店街の風景も混じっていました。

 

Cさんに絵の内容について尋ねますが、いつも思ったような答えが得られません。諦め半分、あれこれ干渉せずに世界観を尊重することにしました。

 

対応が奏功しているのは事実でしたが、何も考えずにただ鉛筆と紙を渡しておけばよいという、あまり好ましくない構図ができ上がってしまいました。Cさんと絵の在り方について、職員間で話し合うことになりました。

 

Cさんに目標意識をもってもらうために、3ケ月後に控えた秋のバザーで何かできないかとの意見が出ました。完成した絵を売ったらどうか・似顔絵ブースを設けてはどうか等、様々な意見が出ます。

 

さすがに売ってしまうのはどうなのか・そもそも目標や意図を理解できるのか・体力的に大丈夫かといった問題もありましたが、最終的には完成した作品の個展風掲示・Cさんによる似顔絵ブース設置が採用されました。

 

個展名は某女性大物司会者の番組にちなんで「〇夫(Cさんの名前)の部屋」とし、似顔絵は1枚500円で販売、期限はCさんが疲れるまで。

 

お金が絡む話になるため本人と息子さんにも相談したところ、Cさんは「ああ、やりましょうか」と気のない返事でしたが、息子さんはとても喜んで下さり、強く後押ししてくれました。

 

5.バザーに向けて

当日は息子さんも是非参加したいとのことで、皆の気運が一気に上昇しました。Cさん自身は特に自覚がないようで、いつも通り絵を描いています。没頭しすぎてなかなか食事をとらない、夜眠らないとの申し送りもありましたが、全くというレベルではないため黙認することにしました。

 

時折何かに対して怒って声を荒げることはありましたが、以前と大きく変化したのは、食べ物を探してウロウロすることがほとんどなくなったことです。Cさんの欲求は食事ではなく絵を描くことにシフトしたようで、手持無沙汰になると「紙と鉛筆はどこだ?」と探しまわるようになりました。

 

定期的に精神科の先生に診てもらっていましたが、「薬は飲まないに越したことはない」との考えで、ここまで没頭しているのであれば、一度薬をやめてみてはどうかとのことでした。また粗暴なCさんに戻るのではないかとの多少の不安はありましたが、やってみようということになりました。

 

1週間、2週間と経過しますが、良い意味で変化はありません。介護の世界で正解・不正解という言い方はあまり相応しくないとされますが、ことCさんへの対応としては正解かつ成功だったと実感します。

 

息子さんから、少し大きめの重たい包みが届きます。中にはCさんのアルバムが入っていました。本人に渡したところ、穏やかな表情で眺めていました。私たちも見せてもらいましたが、どこかで見たことのある女性や風景の写真がちらほらと。それぞれに、息子さんの字によく似た達筆で、簡単なタイトルが書いてあります。

 

そう、たまに現れる謎の女性は奥さん、田舎はCさんの生まれ故郷の風景、商店街は繁盛していた頃の金物屋から見た風景だったのです。バラバラに散りばめられた右下の西暦と日付は写真の時代とほぼ一致していました。Cさんは絵を描きながら、懐かしい時代にタイムスリップしていたのでしょう。

 

冷静に考えれば大して驚くような話ではないのですが、アルバムをめくる毎に謎が解けていくような感覚、まるで探偵のような気分で、妙に興奮してしまいました。

 

そうこうしているうちにバザーの日が目前に迫ってきました。個展でどのようにレイアウトするのかを皆で話し合い、ジャンル毎に仕分けしていきます。保存のためラミネートしようかと思いましたが、ひょっとするとCさんが手直ししたがるかもしれないと思い、そのまま掲示することにしました。

 

6.C画伯

バザー当日。天候に恵まれ、息子さんも仕事を調整して駆けつけてくれました。Cさんには漫画家のようなベレー帽をかぶってもらい、「〇夫の部屋」の似顔絵ブースに座ってもらいます。

 

環境変化で混乱しないだろうか・そもそも似顔絵を描いてくれるだろうかと心配が募り、傍らで見守る息子さんも緊張の面持ちでしたが、肝心のCさんはウトウトと居眠りしていました。ベレー帽はだんだんとずり落ちて行きます。

 

とあるご婦人が「私を描いてもらえるかしら」とCさんに声をかけます。おもむろに顔を上げ、睨みつけるようにご婦人の顔を凝視します。私たちは元のCさんの姿を知っているので、緊張感が走ります。「もう一度、お願いできますか?」とCさんが話したため、慌ててフォローを入れます。

 

その後、特に返事をすることもなく、Cさんは鉛筆と画用紙を手に取ります。後ろで見守っている息子さんは何も言いませんが、「おお…」といった表情で画用紙に描かれるご婦人を見ています。

 

彼女は「おじいさんが頑張っているのね」程度で声をかけたのでしょう。ゆっくりとしたペースに少し持て余してきた様子でしたが、完成した絵を見て驚愕していました。あまりにもオーバーなリアクションだったため、人が集まってきます。多くの来客が「〇夫の部屋」で足を止めます。

 

似顔絵は1枚500円の予定でしたが、ご婦人はテカテカのピンク色の財布から1万円を出しました。さすがにまずいだろうと、息子さんが丁重にお断りし、500円玉を受け取ってCさんに渡します。

 

Cさんが「疲れた…」と席を立ったため、居宅に案内します。その手には500円玉を強く握りしめられていました。ベッドでゴロンと横になり、「ふあ~~!」と大きなあくびを一つ。満足そうな表情でした。

 

似顔絵コーナーはあっという間に閉店してしまいましたが、先程のご婦人がドヤ顔で「○夫の部屋」の宣伝をしてくれました。

 

当日の目玉商品は力士の生手形とサイン・湯呑セットだったのですが、Cさんの絵に注目を奪われ、まさに土俵際の状態でした。

 

この手のことをやると大抵「認知症の人が仕上げた割には上手だ」という補正が入ることが多いのですが、芸術に造詣が深い人の意見はいざ知らず、Cさんの絵は純粋に上手いと感じられました。

 

バザーが終わりました。Cさんは既に居室で眠っていましたが、息子さんが後片付けを手伝ってくれました。「形は違えど、父の「個展を開き、絵で稼ぐ」という夢を叶えてもらった。本人の頭さえしっかりしていればもっとよかったんだけどね」と少し目に涙を浮かべながら、少し寂しそうに、嬉しそうに話しました。

 

7.衰えを受け入れる

他部署や外部からも「〇夫の部屋」は大好評だったようで、バザー後の打ち上げはCさんの話で持ちきりでした。私たちはその功績をまるで自分たちの手柄のように語り、喜びました。

 

次の日の朝も興奮冷めやらぬスタッフから「すごかったですね!」と称賛されます。Cさんは何を褒められているのか全く分からない様子ですが、まんざらでもないという表情です。

 

バザーという目標を失ってCさんが意気消沈しないかと懸念していましたが、そもそもそのことを覚えていなかったようです。

 

その後も毎日Cさんは絵を描き続けましたが、段々と線が粗くなり、途中で辞めて眠ってしまうことも増えてきました。認知症以外に特段の健康上の問題はありませんでしたが、老いは着々と進行していました。

 

いよいよCさんは寝たきりになり、紙と鉛筆を持って絵を描くことはなくなりました。しかし時折、ベッドで横になり、目を閉じたまま空中で手を動かして何かを描くような動きをよくしていました。

 

気の毒な話に聞こえるかもしれませんが、何もなくても、気持ちで描いても、それがCさんの画法であり、作品ができ上がっていたのでしょう。

 

Cさんにおいては絵を描くということが功を奏して状況が好転したケースですが、今までの生きてきた過程や趣味・嗜好等を知り、とりあえずそれに近いことを勧めれば喜んでくれるだろうという安直な考えが蔓延っているのも事実です。

 

高齢者介護においては、爆発的に盛り上がることはあっても、それが数ヶ月・数年に渡って続くことは少なく、一過性のものになることの方が多いと言えます。現状維持できれば御の字で、どこかのタイミングで下降していくのを受け入れ、見届けなければならない立場にあります。

 

「昨日まで元気だった人が、今日はいない」これは私たちも同じですが、高齢者の場合は特にその可能性が高い状況にあります。

 

それはマイナス側面であると同時に、残された時間をいかにして有意義なものにできるかを模索し、実現できる立場でもあるということです。

 

介護職とは、押し付けにならない程度に過去・現在にスポットライトを当て、最後になるかもしれない花道を飾る仕事とも言えるかもしれません。

 

C画伯は喜んでくれたのか、満足してくれたのか、はたまた私たちの押し付けだったのか、答えは誰にも分かりません。

 

仕事用のペンがなくなったため、文具コーナーに立ち寄りました。埃をかぶった「トンボ鉛筆」を見かけ、ふとCさんを思い出します。

 

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