アメリカの社会福祉においてメアリー・リッチモンドと同時期に活躍した偉大なソーシャルワークの先駆者です。アメリカでセツルメントハウスであるハルハウスを設立し社会改良に務めました。のちに、米国人女性として初めてノーベル平和賞を受賞しました。
ジェーン・アダムズ(Jane Addams、1860-1935)
生い立ち
何不自由のない生活からの失墜
1860年にイリノイ州セダヴィルに生まれました。彼女は2歳の時に母親を亡くしてしまいます。しかし、シカゴで銀行、鉄道、材木商、製粉業を営む大起業家で州上院議員であった父親のもとで何不自由のない環境で育ちます。父親はリンカーン大統領と南北戦争を共に戦い盟友とも呼べる仲でした。ジェーンの名前はリンカーン大統領が付けたものです。
1881年にロックフォード女学院を首席で卒業し、医師を目指してフィラデルフィア女子医科大学に進学しましたが、父親を突然亡くしたこと、自身の脊髄の手術のためアダムズは半年で退学しました。この時、家庭を築いて母や妻として生涯を費やすことに満足が行かず、生まれながらにして脊椎に持病があるため子供を産むことが困難であったアダムズは人生の目的を失いました。
トインビーホールとの出会い
半ば神経症のような状態でモラトリアムとしてヨーロッパを遊学しました。スペインのマドリードで見た闘牛見物をきっかけに、生き方を変え、ロンドンに向かい、そして欧州旅行先で1884年にイギリスのロンドンにバーネット夫妻らが開設した世界最初のセツルメントハウスであるトインビーホールに立ち寄ったことが彼女に転機をもたらしました。
アメリカへ帰国すると、学友でもあり、親友でもあったエレン・ゲイツ・スターと共同でセツルメント開設を構想し、当時シカゴ最大のスラムであったハシュタット通り沿いにあったハル氏の邸宅を購入し、そこにアメリカで2番目のセツルメントハウスである、ハルハウスを設立しました。
ここにハルハウスの生きがいを見出したアダムズはのちの全米セツルメントハウスを先導する立場に立つだけでなく、1909年には全米慈善矯正会議の議長の座にも就きました。
余談
セツルメント活動が活発になってくるとハルハウスに事務員が必要となります。ハルハウスの通りに面した窓に事務員募集の掲示を出したところ、応募してきたのがメアリーリッチモンドだったのです。
彼女は事務員をしながらwhat is the social work を執筆します。
※この時期はリッチモンド自身もかなり忙しかったはずなので、事務員をする余力があったのか疑問が残ります。真偽のほどは調査したいと思います。
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