社会福祉士コラム

【小説風事例紹介】認知症の不安を抱えるNさんに必要な支援は何か?

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1.なんでもできるおばあちゃん

これは私が有料老人ホームで生活相談員兼、介護職として働いていた頃の話です。私が働いていた有料老人ホームには同じ建物の中に有料老人ホームとデイサービス、訪問介護が併設されており15名のご利用者様が生活していました。

 

有料老人ホームということもあり、介護度は幅広く、要支援の方から要介護5の方までいました。その中に92歳の女性、Nさんがいました。Nさんは要支援2、認知症もごくごく軽度なものであり、とても穏やかで優しい方でした。

 

また、その方は杖をついているものの自立で歩くことができ、「調子が良すぎて杖を持ってくるのを忘れてしまった。ボケたじゃろうか」と笑って取りに帰られる姿もあるほどしっかりしていました。

 

また、Nさんは7人兄弟の末っ子で、自分以外のご兄弟はすでに他界していました。Nさんはとてもお話し好きで、私が夜勤で訪室すると30分程度思い出話や世間話をすることもありました。しかし、私たちの仕事の手を止めていいかという心配や気遣いもしっかりとしてくださる方でした。

 

そんなNさんは昔から洋裁や編み物をされたり、書道・詩吟など多趣味であったことから、とても器用な方でした。

 

有料老人ホームで洗濯物を畳んでもらっても、15名のご利用者様の名前を間違えることなくより分けをし、衣服にほつれがあれば「針と糸を持ってきて」と言って、すぐに修繕してくれました。洋裁にしても糸通しもスムーズに行われていました。私が針に糸を通せないのを見て笑って「男のする仕事じゃなかろうね。貸してごらん」と笑顔で助けてくださっていたのをよく覚えています。

 

Nさんは私たちにだけ優しいわけではありませんでした。要介護5の自立で生活が困難な車いすのご利用者様のもとに行かれては「今日も会えたね」「元気にしてるかね」「今日は天気がいいよ」などの優しい声掛けをしていました。

 

とても優しく、思いやりがあるNさんだった事から週に2回通っていたデイサービスでも周囲の方と楽しくお話しをされたり、手工芸などの作品作りでも中心になって手伝っていました。

 

これらの内容から分かるかと思いますが、Nさんは要支援すら本来は不要なレベルでした。しかし、Nさんは若い頃に炭鉱で働いていたのです。そのため、58歳の時に肺がんを発症され、左肺上葉の切除手術を行うことになり、慢性肺気腫のため日中帯も激しい運動は禁止であり、夜間帯は在宅酸素を使用しなければなりませんでした。

 

日中帯に在宅酸素を使用する必要はありませんでしたが、ご本人様が倦怠感を示された際やSpO2の値が90%以下になった時には居室で休んでいただくように促す必要がありました。

 

2.家族の想いとNさんの想い

有料老人ホームから5分程度の場所に長女様が住んでいました。元々長女様はNさんと同居を考えていました。しかし、Nさんの優しさから「娘の手を取るよりも娘が好きに遊びに行けるほうがいい」「これからもっと歳をとったら手を取るだろうから同居よりも施設のほうがいい」と言われたことで同居を止め、入所することになりました。

 

長女様もそんな優しいお母様が大好きだったことから、Nさんの面会をかかすことはありませんでした。面会に来られた時にはNさんの様子を細かく聞かれ、Nさんに必要なものがあれば迅速に対応してくれました。

 

長女様だけでなく、お婿さんやお孫さんも「昔からとてもよくしてもらった」と協力を惜しまずに対応してくれました。

 

3.認知症のはじまりと不安

そんなNさんでしたが、少しずつ物忘れが増え始めました。最初はとても小さなことで、気にかける内容ですらありませんでしたが、夕食後に義歯を洗うのを忘れていたり、自分のかばんをどこに置いたか忘れてしまったり、食堂で塗り絵をしようとしていたが塗り絵を忘れてしまったなど、少しずつ増えていました。

 

Nさんは最初のころは「歳は取ったらいけんね」と笑って取りに戻られて、職員と一緒に探したりしていました。しかし、自分の失敗が増えるたびに少しずつ不安に思われるようになっていました。

 

Nさんは有料老人ホームに往診に来られる主治医への相談をすることもありましたが、「92歳まで要支援でなんでも自分のことができる方がすごいですよ」と医師からも伝えられていました。

 

私の夜勤の時にも「私もとうとうボケてきたんだろうね。私ももうダメなんかもしれんね」と不安を口にすることもありました。私は不安で涙を流しそうになっているNさんに「Nさんは今、不安も大きいかもしれませんが僕は心配していません」と伝える事がよくありました。

 

私の祖母は101歳まで生きNさんのように90歳をこえるまで要支援すら認定してもらえませんでした。Nさんと話しをする時に私はよく自分の祖母の思い出話をしていました。

 

「Nさんが、自分が物忘れをしたことすら忘れてしまったら僕は心配します。Nさんが忘れ物をしたことがわからなくなってしまったならNさんの言われるボケた…になるかもしれませんね」と笑いながら話すと「忘れ物をしたことはしっかり覚えてるよ」と笑って話してくれました。

 

しかし、Nさんの不安は完全に取り去ることは当然できませんでした。Nさんは自分の失敗体験を卑下するようになっていました。

 

また、他のご利用者様に優しく声をかけてくださっていた姿も「私も近いうちにああなるんだろうか。人にご飯を食べさせてもらわないといけなくなるんかな」と悲しい表情を見せられることが多くなっていました。

 

私たちはNさんのその姿を見て、長女様ご夫婦やケアマネージャーへの相談を行うことにしました。そして、主治医に長谷川式認知症スケールの実施や服薬の必要性についても検討していただきました。

 

診断の結果としては、Nさんの場合であれば変更申請を行うことで介護度2の判定がでる内容でした。その結果を聞かれた長女様も「とうとうお母さんも人の手を借りないといけなくなったんですね」と落胆していました。

 

私は今その時にNさんの介護度が上がる事に抵抗を受けました。確かに介護度が2になる事で提供できるサービスの幅は広がります。しかし、本当に介護度があがることがNさんにとっての幸せなのかを改めて考えてみないかと、同僚たちに問いかけてみました。

 

Nさんが有料老人ホームで生活をする中だけでも、もっとできることがあると考えたからです。確かにデイサービスに行くことで他者とのつながりが増し、認知症や物忘れに対するサービス内容を受ける事はできるかもしれません。

 

しかし、その時のNさんに必要な支援が本当にデイサービスや訪問介護といった福祉的サービスなのか、私は疑問に感じました。

 

会社で働いている身としてはアウトの考えです。福祉サービスの利用があれば会社の収益は増える。要支援という固定額利用から使用された分を支払われる要介護であれば収益は大きく異なり、会社経営を考えれば後者が選ばれるのは当然です。

 

私は周囲から大反対を受けましたが、その時のNさんに必要な事は福祉サービスを増やすよりも、Nさんのペースで自信を取り戻すことができる環境が先に必要と感じていました。

 

福祉サービスを否定しているわけではありません。それぞれのサービスに特色があり、必要なサービスを受けるのも方法のひとつです。

 

しかし、集団での行動や決められた時間にしか受けられないサービスよりも先に、失敗体験の繰り返しであったNさんには自信を取り戻し、これからの人生に前向きになっていただく事が先決と思いました。

 

4.認知症に対する不安と家族の支え

私はケアマネージャーや御家族への打診を行いました。認定調査を受けて判定が出るまでには時間があったことから、その限られた時間に結果が出なければ福祉サービスの追加をしてほしいと依頼しました。

 

私はまず、長女様と相談し、長女様がパートタイムに出られない曜日の昼食を一緒に過ごしてもらえないかと打診しました。そして、「ただ、過ごすのではなく一緒に家事をさせてあげてほしい」と伝えました。

 

「一緒に料理を行い、一緒に掃除をして、一緒に洗濯をする。そして楽しく話をしてほしい。長女さんが普段当たり前にやっていることを一緒にしてもらうだけでいいです」と伝えました。長女様はもとより同居も考えてくださっていた方だったことから快諾してくれました。

 

日中帯に体調がすぐれなくなった時のことも考え、携帯用の在宅酸素も長女様の自宅に設置依頼しました。ただ、夜間帯に関しては、常に見守りのできる施設に戻っていただくという生活にしてもらいました。

 

Nさんは最初「娘に迷惑かけるんじゃないか」とマイナスの言葉を発していましたが、施設に帰ってこられると「今日は娘と魚を焼いたよ。あの子は昔から魚が嫌いな子だったのにおいしく食べてた」など発言に変化がみられるようになってきました。

 

長女様が仕事に出られる都合で、15時半頃には施設に戻る生活を送っていたNさんでしたが、施設に戻ったあとにも色々な生活用品を作る様になっていました。次に娘の家に行ったときに使うとウエスを作られたり、洗い物をするスポンジがもう汚かったとアクリルの毛糸を使ってスポンジを編まれたりと一生懸命でした。

 

最初は反対していた職員もNさんの嬉しそうな姿や一生懸命な姿を見て、徐々に態度が変化していきました。

 

施設に植える花の苗に余りが出た際には、Nさんが家で植えるのに使ってもらえないかと進言してくれたり、Nさんが作っているアクリルスポンジの作り方を教えてほしいとNさんに話しかけるなど、Nさんを囲んで話をするようになっていました。

 

Nさんに以前のような不安な表情はなく、活気に満ちあふれていました。

 

5.高齢者にとっての喪失感と失敗体験

 

しかし、Nさんの物忘れが全くなくなることはありませんでした。しかし、Nさんの心の持ち方に少しずつ変化が表れていました。長女様と過ごす時間が増えただけでなく、長女様が忘れ物をした時にも「あの子は昔からおっちょこちょいだったけど、60を超えても治らんね」と笑っていました。

 

Nさんが落ち込んでいた時には、他者の失敗に対しても「私にとっても明日は我が身…私もできなくなる」とできなくなる可能性があることに対して悲しみを持っていました。そんな環境の中でNさんが失敗してしまえば自分の失敗を責めることで頭がいっぱいになってしまわれていたのかもしれません。

 

Nさんはそういった喪失感の中で生活してしまったことから、自身の失敗を責め立て悪循環に陥っていたのだと思います。

 

私はNさんが物忘れに悩まれた時に話してくれたことを良く思い出します。「7人いた兄弟の中でどうして私だけ生き残ってしまったんだろう」「こんな想いをしないといけないのになんで死ねないんだろう」「私はこれからどうなるんだろう」と泣いていました。

 

私はこの頃、有料老人ホームの管理者になっていたことから、往診の際に主治医と話す機会を持っていました。私は主治医と話す中でNさんの喪失体験からの軽いうつ病について話しをすることができました。

 

老人性うつの症状のひとつに記憶障害や自責の念の有無についての項目があります。私はNさんの発症時からその頃に至るまでのNさんの様子について細かく伝えました。私たちはNさんに対して環境調整・薬物療法・精神療法のサポート体制を整えました。

 

6.Nさんの生活の変化

Nさんが長女様の自宅に戻るようになって1か月が経過した頃に認定調査結果としてNさんには介護度2が判定されました。私がケアマネージャーと約束した日が来たのです。

 

Nさんの担当者会議が開催されました。

 

私はこの日の答えに対しては何も意見するつもりはありませんでした。Nさんは笑顔を取り戻し、以前と同様の生活に戻られたとしても何ら問題ないと思えていました。

 

ケアマネージャーからは次回の認定調査があった際にはおそらく介護度2は判定されないだろうと話がありました。そして、ケアマネージャーからは今後のNさんの方針についての聞き取りが行われました。

 

長女様はこれからもNさんと日中帯にいる時間を作っていきたいとの意向がありましたが、担当者会議に出席していたNさんからは反対の言葉が出ました。「私を気遣ってがんばらせてしまっていたのは知ってる。私は大丈夫だから、ここでしっかり生きていく」と日中帯も有料老人ホームで過ごしたいと話をされました。

 

Nさんは自分のために長女様が無理をしていたことに気づき、どのタイミングで自宅に行かないようにするかを考えていたようでした。

 

私たちはNさんに長女様が親を想う気持ちも尊重させてあげてほしいと伝え、これまで1週間のうちの4日を在宅で過ごしていたのを少しずつ減らしてみてはどうか。そして、減らす中で状況にあわせてNさんが再度決定していくことができると提案しました。

 

Nさんはその提案を受けてくださり、少しずつ元の生活を取り戻していかれました。1週間に2日しか帰られない週もあれば、4日帰られる週もありました。しかし、その中でもNさんは前にも増して裁縫や趣味活動に積極的に取り組まれるようになりました。

 

時折、他のご利用者様が介助している姿を寂しそうに見つめられていることもありましたが、私たちが話しかけると「まだ心配いらんよ。ボケたことがわからんことなったら教えておくれ」と笑って答えてくれました。

 

7.Nさんの心の支え

私はこの件である意味では福祉サービスを否定してしまったかもしれません。私たちが行う高齢福祉サービスでも認知症予防は可能です。しかし、Nさんのケースのような場合では、認知症に対するサービスが必要だったとは考えていませんでした。

 

今回のNさんのケースでは、認知症が進んだので、サービスを追加すればいい、と判断してしまえばそれで終わりでした。しかし、Nさんの言動を観察していなければわからない事が多くありました。この時のNさんに必要なケアは精神的に安定できる環境だったと思います。

 

その時のご利用者様にとって本当に必要なケアがなんなのかは、共に時間を過ごしている職員にしかわからないかもしれません。私は担当のケアマネージャーから「現場の声」という言葉を耳にします。現場で実際に接しているからこそ見えるものがご利用者様のQOL向上の最大のヒントなのだと思います。

 

そして、私たちは決してNさんに使用しない2つの言葉がありました。ひとつは「がんばって」という言葉です。理由はとても単純です。Nさんはすでにがんばっておられるのです。がんばりすぎて心が疲れてしまった方に、もっとがんばってくださいという言葉は病気を悪化させる原因になってしまいます。 

 

病院で行われる精神療法などでも具体的な接し方は、病状や期間や相手の性格によっても異なるため、専門医に相談して決めます。Nさんの場合は認知症の初期段階での対応であり、環境を整えるにあたっても依頼した『普段当たり前にやっていることを一緒に』が一番の安定だったのです。Nさんは人一倍、他人に迷惑をかける事を嫌っていました。おそらく長女様が特別な行為をされることに気を使ってしまったと思います。

 

Nさんにとっての安心安楽な生活のスタイルを作ることや人や社会との接点を持つことは、家庭にあったと思います。Nさんはうつ状態の軽減と共に買い物にもついて行き、作る料理に必要な材料を考え、料理の手順を考え、一緒においしいと食べる事ができました。Nさんにとっては二度と体験できないと思っていた喜びであり、ごくごく当たり前の生活が一番の精神療法だったと思います。

 

そして最後に私はNさんの担当者会議の際にNさんの決断を認めました。Nさんを決して否定しない事を決めていたからです。否定や反論は、ご本人様にとって悲観的になり症状の悪化につながります。耳を傾け傾聴し、ご本人様の想いに共感することも治療のひとつとして行いました。

 

私はこのNさんのケースに関しては福祉サービスではできないことに直面したと思っています。Nさんのご家族が受け入れることのできた環境にあった事はNさんがたまたま恵まれていたのかもしれません。次にNさんが同様に物忘れをされるケースがあったとしても同じことができるかはわかりません。

 

しかし、私たち職員はあくまでも他人でしかありません。他人だからこそできることもありますが、親族だからこそできることがあると改めて感じました。

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