はじめに
42歳の恵子さんは、かつて病院の看護師として働いていた。現在は仕事を続けながら、社会福祉士国家試験の勉強に挑んでいる。医療現場一筋だった彼女が、新たに福祉の専門職を目指すことになった背景には、東日本大震災という大きな出来事がある。
災害の現場へ
2011年3月。テレビから流れる被災地の映像を見て、居ても立ってもいられなかった恵子さんは、休暇を取り、仲間とともにボランティアとして現地に向かった。
「現場に着いた瞬間、想像していた以上の現実に言葉を失いました。」
壊れた家屋、避難所に身を寄せる人々。看護師としての経験を生かし、体調の悪い人々への応急処置や健康相談を行ったが、次第に気づかされることがあった。
医療だけでは届かない支援
「体調を整えても、明日どこで暮らせるのか分からない。仕事も家も失った不安を抱えた人たちの心をどう支えればいいのか、医療の枠では手が届かないと痛感しました。」
仮設住宅や避難所で出会った高齢者や障害のある人たちの悩みは、医療的なケアにとどまらない。家族の行方、住まいの確保、生活資金、地域のつながり――暮らしを取り戻すためには、制度や地域の力をつなぐ支援が必要だった。
「『薬を渡すだけでは、その人の人生は変えられない』。その現実が胸に突き刺さりました。」
ボランティアがくれた気づき
何度か被災地を訪れるうちに、恵子さんは避難所で活動していた社会福祉士たちと出会う。彼らは行政やNPO、地域の人々をつなぎながら、被災者一人ひとりの生活再建に寄り添っていた。
「仮設住宅の入居手続き、仕事探し、家族の再会支援…福祉職が動くことで人々の生活が少しずつ形を取り戻していく。目の前でそれを見て、胸が震えました。」
医療では支えきれない部分を制度と人の力で支える――その姿が、恵子さんの心に強く刻まれた。
資格取得への決意
震災から数年後、恵子さんは看護師として働き続けながらも、心のどこかで「福祉の専門性が必要だ」と思い続けていた。
「被災地で出会った社会福祉士のように、暮らし全体を支える力を身につけたい。」
40歳を前に通信課程に入学。仕事と家事をこなしながら、夜間に机に向かう生活が始まった。
学びの中で広がる視野
医療の専門知識を持つ恵子さんにとって、福祉の制度や法規は新鮮だった。
「高齢者や障害者、生活困窮者支援など、医療と福祉が交わる場面がこんなに多いとは思いませんでした。」
地域包括ケアや多職種連携の講義では、看護師としての経験が生きると同時に、医療の枠を超えた新しい視点を得ている。
「患者さんを退院後も支えるためには、医療だけでなく福祉の知識が不可欠だと実感します。」
両立の苦労と支え
仕事を終えた後に勉強するのは決して楽ではない。夜更けにレポートを書きながら眠気と戦う日も多い。
「それでも、震災の避難所で出会った人々の顔を思い出すと、もう一歩が踏み出せる。」
支えてくれる家族や同僚の理解も大きな力だ。職場の仲間は「福祉の視点を持った看護師が増えるのは心強い」と応援してくれている。
未来への展望
恵子さんが目指すのは、医療と福祉の架け橋となる仕事。地域包括支援センターや医療ソーシャルワーカーとして、退院後の生活を支え、災害時にも動ける専門職を志している。
「医療現場で出会った患者さんや、被災地で暮らしを取り戻そうと頑張る人たち――その経験すべてを次につなげたい。制度を活かして“その人らしい生活”を取り戻すお手伝いがしたいです。」
まとめ
東日本大震災でのボランティア経験が、恵子さんに新たな使命を与えた。医療の専門家として支援する中で感じた「暮らしを支える力の必要性」。その気づきが、社会福祉士を目指す大きな原動力となった。看護師として培った経験と新たな学びを重ねながら、恵子さんは今、人々の生活を丸ごと支える福祉の現場へと歩みを進めている。