1.大きな環境の変化
今勤めている施設で、脳出血により施設入所となった男性Aさんに出会いました。Aさんは、友人とホテルにいた際に脳出血を発症し朝まで気づかれることなく、ホテル従業員が倒れているところを発見し、救急搬送されたそうです。
搬送後緊急手術となり一命をとりとめましたが、身元が不明だったため経済的な問題や今後の治療などのため、緊急保護申請を行い、生活保護を利用し、治療を受けることができました。
その後、身元がわかり家族へ連絡すると家族からは「死んだ時以外連絡してくるな!」の一点張りで、電話をすぐ切られるため病院での治療終了後の行き先すらありませんでした。そんな中、現在勤めている施設が受け入れ、施設入所ということになり現在生活をしています。
このAさんは、病気を発症する前は市内の高級マンションでかなり裕福な生活を送っていたそうですが、病気を発症したことで生活環境が180度変わってしまいました。
病気という事もあり本人は施設に入所したという認識はなく、介護者のことを自分の家政婦や使用人と勘違いしている状態でした。私は、病気を発症したことにより、今までの生活とはかけ離れたような生活になったことを受け入れることが出来ず、自分の思い描いている世界に逃げ込んでいると感じました。
施設入所された当初は、入院していた時に積極的なリハビリや治療によって、杖を使用して歩くことが出来ていました。ですが、日が経つにつれて、Aさん自身が病前のような生活が出来ないことを受け入れ始めると、著しい意欲の減退とともに発症後にようやくできるようになってきた事も徐々にできなくなるようになりました。
人間の意欲がここまで身体に影響するということを初めて知りました。Aさんに何かしらの活動を提供しても、本人は全くやる気がなく返事はしますが、ただぼーっとしていることが多い状態です。
また、Aさんは病気のせいなのか病前からなのかわかりませんが、口を開くと卑猥な発言ばかりで他者との会話も成り立ちません。そんなある日、Aさんから卑猥な発言の他に本心と思われることを聞くことができました。
Aさんは「家に帰りたい。帰って子供に会いたい」と発言したのです。普段卑猥な事しか言わないAさんで、病前のように戻れないことから絶望から立ち直れないと思っていましたが、本人の中には希望はあったということが、私はとても嬉しかったです。
2.本人と支援者の葛藤
病気を発症したことにより、絶望から立ち上がれないと思っていたAさんの中にある希望を聞くことが出来ましたが、意欲が著しく減退し状態は変わらず日々を過ごしていました。
そこには、希望と現実が乖離していることが大きな問題としてAさんの中にはありました。病前のように歩けるようになり地元で暮らしたいという気持ちと、リハビリなどのいろいろな治療を受けても元には戻らないという葛藤です。
そのため、支援者がAさんのためと思い活動の提供や治療をしても、これを乗り越えないと帰ることができないとわかっていても、Aさんにとっては苦痛でしかない状態です。身体機能が低下しないように訪問リハビリを利用していましたが、あまりの意欲の無さにリハビリスタッフは、リハビリをする意味がないと判断しリハビリ終了となった事もあるくらいです。
支援者としては、良くなって欲しい、希望する地元へ帰られるようにしたい、という思いがあっても本人にとっては苦痛であり、拒否がある以上できません。
また、Aさんの家族は疎遠状態であり、連絡を取っても「死んだ時以外は連絡してくるな!」の一点張りですから、いざ地元に帰られるようになったという時に家族が受け入れてくれるかどうかという問題も発生します。
そうなると、地元の施設入所を検討するべきなのでしょうが、身寄りがない、家族と連絡が取れないとなると病院や福祉施設はなかなか受け入れてもらえません。
かといって独居の目標は、福祉制度や医療制度を使用したとしても今のように意欲が減退し何もしないという状態になるととても厳しいものがあります。
このままできる事もしないから介助中心の生活を送ってもらうのか、それとも多少苦痛を感じさせてもできることは本人にしてもらいながら今の施設で生活を送ってもらうか、本人の希望の通り地元で生活してもらうかなどの支援者の葛藤もあります。
Aさんと支援者の両者が同じ方向で向かっていけるようになることが今後の課題として挙げられ、AさんだけではなくAさんの家族にも関わっていかないといけないと私は思いました。何を優先にしていくのかということにとても悩みました。
そんなある日、事件が起きました。
3.大きな心境の変化と新たな支援
Aさんの誕生日をお祝いしている時でした。その時事件が起きたのです。それは、ケーキを切るための包丁をAさんが握り、「僕は生きていても仕方ありません。」と包丁を首元へ持っていき自殺を図ろうとしたのです。
慌てて包丁をAさんから取り、Aさんが傷つくことなく、なんとか誕生日をお祝いすることが出来ましたが、お祝いという空気から一転してしまいました。脳出血という病気により、病前のように体を自由に動かすことができないということからうつ病を発症したのだと思いました。
しかし、このことをきっかけに調べてみると、Aさんはかなり前から統合失調症(以下SC)を発症していることがわかりました。それも、施設入所する前から身元不明であったため、どんな病歴があるのかという情報がなくたまたま今の施設利用者が以前、同じ精神科病院に入院していたという話を聞きわかりました。
S Cという病気は症状にリズムがあり症状が一番悪い時から、回復へ向かった時が一番自殺の危険性があると言われています。もしかしたら、Aさんは今の施設で一番悪い状態から回復しようと頑張っていたのかもしれません。
今までは、脳出血の後遺症に対しての支援や治療を中心にしていましたが、今回の事件でSCに対しても治療と支援を行って行く必要が出てきました。しかし、どのようなタイミングでまた同じようなことが起きるのかは予測がつかず、些細なことがきっかけで起きたりします。また、精神疾患の方は休息と活動のバランラスがとても重要で、今回のことが妄想から来ているものだったとしたら、妄想からの脱却が重要です。そのためには、活動に集中させ妄想をする隙を与えない状態を作ることが良いのですが、Aさんのように意欲が著しく減退してしまっているとできることやAさんが好きなことですらしようとしません。
その状態だから、何もさせないという状態を作ることも必要になります。何もしない状態をつくると人は何かしたいという気持ちが出てきます。しかし、Aさんの場合、何もさせない状態を作ると何かしたいということは生まれず、ただただ臥床しているという状態になり、機能低下が進行して行くばかりになります。
今後、どのような支援や治療を進めていけば良いのかとても悩みました。そこで、私はAさんが言っていた「地元に帰りたい」ということを思い出しました。地元へ帰るためには…という形で動機付けを行い、支援をすることにしました。すると、Aさんから普段では考えられない言葉を聞くことになります。
4.動機付けと支援の方向
Aさんの生活がより良いものになるように試行錯誤をしながら変わらない日々が続いています。
Aさんは著しい意欲の減退があるため、Aさんの希望である「地元に帰りたい」ということを利用して、私は地元に帰るために一緒に頑張りましょうと動機付けを行なっていたのですが、Aさんからは考えられない発言がありました。
それは、「X先生の股間を見せてください。そして触らせてください」というのです。Aさんは男性なので女性に関連した卑猥な発言ならまだわかるのですが、男性に関連した卑猥な発言が出たことに驚きました。その後何を話してもそのことばかりで会話にもなりませんでした。これが病気によるものなのか病前からそうなのかわかりませんが、毎日のように同じ発言をするため私は、「一生懸命、リハビリやできることを積極的にしたらいいですよ」と実際にするわけではありませんが、その発言を利用しそれを動機付けにしました。するとAさんは「やったぁ」と発言し、私がそう発言すると意欲が向上しました。
いくら治療や生活をより良いものにするという目的があっても、流石にこのような動機付けで意欲が向上するとは思いませんでした。妄想や本人の心境を理解したうえでそれを利用するという方法は、支援をする上で必要な場合もあるのですが、実際にこんなに頑張っているになかなかしてくれないとまた意欲が減退してしまうかもしれないと私はかなり困りました。そこで、私は卑猥なこと以外にAさんが楽しみにしていることや好きなことを探ってみることにしました。
唐突にAさん本人に質問をしても変わらず、卑猥なことしか返ってこないためAさんの地元について質問をしながら聞いてみることにしました。すると、卑猥なこと以外にもAさんは釣りなどを趣味にしていることもわかりました。何一つしようとしないAさんが、好んでしていたことを聞き出せたということは大きな進展でもありました。しかし、現在の状態では外出するには沢山の問題がありなかなか実行はできませんが、いずれそれができるように、地元に帰りたいという希望以外にAさんとの目標ができた時でもあります。
何が正解がわかりませんが、Aさんの妄想的である卑猥な発言を利用しながらモチベーションを保ち、Aさんが以前していた活動ができるような支援の方向性が見えてきました。ただ、Aさんのモチベーションを保ち続けるということは簡単ではありませんし、Aさんにとって負荷がかかりすぎると妄想の世界に逃げ込む傾向があるので、バランスを考えながら支援は続きます。
5.施設とAさんを縛り付けるもの
変わらない日々を過ごしているAさんですが、とても大きな問題を抱えていました。それは、本人にとってはとても重要なことであり、また本人だけではなく施設側としても大きな問題でした。その問題というのは、現在利用できる制度です。
現在Aさんは生活保護を利用していますが、行政機関の問題で生活保護費をAさんに払い過ぎていたということで、生活保護費が減額されています。そのため、Aさんの身体機能や精神機能が良くなり独居での生活ができるようになったとしても、経済的に難しく生活ができないということです。また、Aさんは現在障害者手帳の申請を行っていません。申請を行ったら障害者に対する給付制度等が利用できるのですが、生活保護との関係で現在より定期的に入る金額が減少してしまう可能性も出てきます。そうなるとAさんがどんなに良くなっても、生活していくにはとても難しい状況です。
更に、Aさんの家族は疎遠状態です。家族に連絡をしても「死んだ時以外連絡してくるな」という状態で話をすることすらできません。もしAさんの様態に変化があり手術、入院となった時も家族の同意がないとできないという病院も少なくありません。
また、今の施設では支援が不可能となった際も同様です。施設を変えるとなった時に施設側も家族の同意が必要ですし、それがないと施設への入所ができないという問題があります。今の状態とさほど変化無くてAさんの希望通り、地元へ帰ることになっても独居での生活が厳しいため施設への入所というのが最善と思いますが、現況では入所も難しい状態です。Aさんのように家族が疎遠で身寄りがないという方で、制度を利用して施設のお金も支払えないという方に対しての救援制度として、生活保護制度があるはずなのにほとんど意味がない状態です。
国を始め、都道府県や市町村では福祉に力を入れていくことを掲げていますが現実とは異なり矛盾しているような気もします。また、2025年年には超高齢化になると言われている中、その年に近づけば近づくほと医療費などの社会保障費はどんどん膨らんでいきますし、2025年以降は更に大きなものになると思います。そうなるとAさんのように「過払いにより払えません」という方はしっかり保証がされるのでしょうか?今後がとても不安であり、本来本人にとっても施設側にとってもより良いものになるはずの制度や環境に縛られている状態です。
しかし、全てが解決するわけではありませんが少しでも環境を改善する希望がありました。
6.利用できる制度を最大限に活用する
Aさんと施設側ともに制度や環境により縛り付けられていましたが、そんな中でもわずかな希望がありました。全てを解決できるわけではありませんが、まだ未申請で活用していない制度です。それは、障害者手帳でした。
本来、病気を発症し独居なり施設入所なり本人がより良い生活ができるように障害者手帳の申請を行うことが多いのですが、Aさんはなぜか申請をしていなかったのです。しかし、障害者申請を行っても得られる給付はわずかなものです。そのため、Aさんが地元に帰って独居することはできませんが、Aさんの生活が今よりも豊かになる可能性が出てきました。現在、Aさんは生活保護を受給していますが、満足に受給できていません。経済的な理由を含め施設生活でも困難な状況であったAさんのこれからの生活の幅を広げるためにも、障害者手帳の申請がとても重要なものになります。
また、Aさん自身が地元に帰りたいという希望を捨てない限り、現在使用出来る制度をフルに活用していくことが、Aさんにとっても支援者にとっても最善策となります。ただ、全てを制度に頼ることは出来ず、制度にも限界がありますし、現在申請中である障害の等級によっても変わります。障害のレベルが軽いと判断されてしまった場合、受けられる支援の幅も狭くなり、今までの生活と差ほど変わりがない状態になります。
現状と大きな差がないとしても、少しでも枠の広がった部分をフルに活用できればAさんの生活は大きく変わると思います。そして、利用できる制度フルに活用し環境を整えることでAさんに対しての支援が本格的に始められます。
現在のAさんは、現実見当識等にかなり乏しく、自身の置かれている状況を理解していません。と言うより、病気によって変わってしまった環境を受け入れたくない、理解したくないといった様子です。制度という環境が整い次第、何年も受け入れようとしなかった現実を、多少は時間はかかりますがゆっくりと受け入れられるように支援していく必要があります。それは、とても難しい事でもあり、Aさんの意欲をどのようにして今よりも向上させることができるかが重要になります。また、「本人にやる気がないなら支援しても無駄」という支援者も中にはいますが、それをどのように改善するかが支援者腕の見せ所でもあり、支援者がプラトーに達してしまうと結果として何もしてこなかったのと同じことになります。ここから本格的なAさんへの支援が始まります。
7.本格的な支援と諦めない心
Aさんが利用できる支援をフル活用する事で、施設での生活ですら困難だったのが使用する前と後では大きく変わりました。今までは、施設を移るということがとても困難でしたが、現在利用できる支援をフル活用したことで、地元の施設へ移ることができる可能性がでてきました。
そのため、ここから Aさんへの本格的な支援の始まりです。 Aさんの現在の心身の状態はあまり良いとは言えません。病気によるものなのかどうなのかわかりませんが、独語や妄想などがとても激しい状態であり、さらに現実見当識等も乏しい状況です。
「今日は何月何日ですか?」と質問すると必ず「12月30日」、または「12月31日」と返答します。その他には、「私は10億円を持っているので、なんでもできる」といった発言をよくします。更には、「妻、息子、娘がそばにいるのに、誰にも挨拶をしない。情けない。」と別れた家族のことをよく話します。
その家族も現在連絡が取れず疎遠状態であり、現在どこに住んでいるかもわかりません。そんな自身が置かれている状況を認めたくないのか、経済状況に関してはそれぐらい裕福だということを周りに伝えたいのかわかりませんが、時間をかけてゆっくりと現実を受け入れる準備をしていかなければなりません。
また、受容するということはとても難しく、順調に受容し始め良い方向に向かい始めた時に自殺を図るなどといった自殺企図の問題も出てきます。その他には受容する過程で攻撃的になることもあります。支援者や治療者に対しての攻撃的態度なら問題はないのですが、他利用者に対して攻撃的になることも考えられます。そのため、現実を受容させない方が良いのではないかということもありますが、それだと現状と変わることなく平行線のままだと私は思います。
また、そこで本人に意欲がなく受け入れようとしないのだから無理だと考える方もいると思います。確かにそれも一理あると思いますが、 Aさん自身がプラトーということよりも治療者や支援者がプラトーに達しているんじゃないかと思います。その中で、どうしたら Aさんが良い方向に向かってくれるのかを到達できなかったとしても続けていくことが大切だと思います。
病気発症から10年以上も経過しているため、身体機能が回復ということは難しいですがとてもわずかですが少しずつ少しずつ Aさんの身体機能は良くなっています。私の思い込みかもしれませんし、ただ機能を維持しているのかもしれませんが、 Aさん自身が地元に帰りたいと地元に帰ることを諦めず思い続けているので、これからも Aさんのように諦めず治療と支援は続いていきます。