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ウィリアム・ヘンリー・ベヴァリッジ イギリスの終戦後の社会保障に関する報告書

ウィリアム・ヘンリー・ベヴァリッジ

 

人名、出身国、生没年

ウィリアム・ヘンリー・ベヴァリッジ イギリス 1879-1963

 

実績

第二次世界大戦中のイギリスで1942年に出版された「ベヴァリッジ報告 社会保険及び関連サービス」において、それまでは慈善事業家たちが自発的な活動として担っていた機能を、社会保障として国家が国民に対して権利として与える制度(ナショナルミニマム)とする考え方を示すことで、戦後のあるべき社会保障のビジョンを描き出した。

 

人柄

裁判所判事である父と慈善事業家である母との間に生まれたにベヴァリッジは、弁護士を目指していたが、人類全体として生き、また生きがいを感ずる条件は何かという問題について日増しに考えるようになり、社会福祉への道へと進んで行った。

 

エピソード

第二次大戦中にチャーチルが戦後の社会保障制度を再構築するためにベヴァリッジを議長とした委員会を設置し、イギリスの終戦後の社会保障に関する報告書、いわゆるベヴァレッジ報告書がまとめ上げられたが、当初ベヴァレッジは議長への就任を渋っていた。

 

しかし、イギリス政府の処遇に対する反発から社会保障の革命的な改革案の作成に着手していくことになるのである。委員会には官僚たちも参加していたが、その内容に責任を負うことができないということで、アドバイザーとしての従事にとどまり、最終的にはベヴァリッジのみが署名を行った。

 

また、ベヴァリッジはその内容がないがしろにされないように、自身で広報活動を行い、その結果として国民の改革への期待を高めることにつながり、「ゆりかごから墓場まで」と言われた、イギリスの戦後における革新的な社会保障政策の形成に大きな影響を与えただけでなく、世界の社会保障政策にも多大影響を与えていくことになったのである。

 

トインビー・ホールの副館長

弁護士を諦めたベヴァリッジはバーネットにスカウトされ、トインビー・ホールの副館長をしていたことがある。

迷っているベヴァリッジに対し、バーネットは有能な副館長には年350ポンド払うと昇給をほのめかした。しかしベヴァリッジは最も高額になっても年400ポンドほどか、と不平をつぶやいた。

バーネットからの提示額は200ポンドであったが、新参弁護士よりはかなり良いことを認めていた。

 

ウェッブ夫妻との出会い

トインビー・ホールで過ごした2年間の間にウェッブ夫妻とも出会っている。ウェッブ夫人の日誌にベヴァリッジに関する記述が残っている。

 

ベヴァリッジはとても不作法だが、正直で、自己に忠実で、冷静な実践家タイプの若い改革者である。不作法なので最初は嫌いだったが、その後は見直すようになった。[彼は]自由党に対しては期待していなかったが、保守党を嫌悪しているので、バルフォア保守政権の存続に対しいつも怒っていた。

 

 

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